「けーし風」第9号(1995.12)「特集 沖縄・土地の記憶」
2015年10月04日/ 本のこと
「けーし風」第9号の特集は「沖縄・土地の記憶」です。
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特集にあたって(屋嘉比収)
日本人と米国人との〈混血児〉であるノーマ・フィールドさんは、偶然に居合わせたセントラル・パークで、ニューヨーク・シティ-・マラソンの先頭の小集団の中に、一人の日本人を見つけたときの様子を次のように書いている。
「私は自分でもおどろいたことに、胸がじんとして危うく涙がこぼれそうになった。何人か日の丸の旗を手にしている人がいた。私はなにも振るものをもっていない。しかたなく、聞こえないほどの声で、走者に日本語で声援を送った。・・・こんなあまたの感情がどっと混じりあうとき、旗はつねに便利な、そしてあまりにもしばしば致命的な、単純化をしてくれるものとなる」(『天皇の逝く国で』)
ここには、生まれた土地や人びとへの〈愛着〉という「人間のまともな感情」と、それと重なり合うが決して同じではない、旗という〈愛国心〉を助長する装置や制度に対してのクリティカルな洞察があるように思う。
ジョージ・オーウェルは、国家という抽象的な組織原理への熱狂的な一体化である「ナショナリズム」とは別に、具体的な土地の具体的な人びとへの愛着という「パトリオティズム」を指摘している(「ナショナリズムについて」)。
オーウェルによると、「ナショナリズム」は拡張的で権力的な志向性とかたく結びついているが、「パトリオティズム」は特定の場所と特定の生活様式に対する献身的な愛情であり、その場所や生活様式こそが世界で一番だと信じてはいるが、それを他者まで押しつけようとはしない。
鶴見俊輔は、その「パトリオティズム」という概念は「愛国心」というよりも、むしろ「郷土愛」という言葉に近いと指摘している。
そして、オーウェルのいう「パトリオティズム」は、時の政府に対する服従ということではなく、幼いときから同じ土地に育ち、そこで同じ言葉を使って一緒に暮らしてきた者のあいだに生まれる親しみや愛情が人間を底のほうから支えるという思想である、と述べている。
この「パトリオティズム」は、「ナショナリズム」とは重なり合うこともあるが決して同じではない、人間の「まともな感情」に根ざしたものだ。
自分が生まれ育った土地や人びとに対する愛着や信頼感としての、その「まともな感情」。
そしてその「まともな感情」の基層には、〈土地の記憶〉を共有しそれに根ざす生き方がみられる。
知花昌一さんは沖縄国体で日の丸の旗を焼き捨てた。
その行為は、日の丸の旗を強要するあり方への拒否とともに、沖縄戦における読谷[よみたん]の〈土地の記憶〉に根ざすものであった。
その読谷の土地の記憶の一つの象徴が、読谷村波平における「チビチリガマ」での「集団自決」である。
戦後世代である知花さんは、その「チビチリガマ」について以前から持続的な聞き取りを行っている。
「チビチリガマ」に関する聞き取りは、知花さんにとって読谷という〈土地の記憶〉にふれ、それを学び共有していく過程であった。
その根幹には、読谷という土地への愛着や、そこに生きる人びとへの信頼という知花さんの「まともな感情」がある。
それには、オーウェルのいう「パトリオティズム」とでもよぶべき、沖縄読谷における〈土地が支える思想〉があるように思われる。
その土地が支える思想は、自立した個人や市民によるネットワークとは異なる、沖縄の思想としての一つの可能性といえるものではないか。
そのような生まれ育った土地への愛着やそこで生きる人びとへの信頼という道すじは、方言学者でありひめゆり学徒を引率した教育者の仲宗根政善氏にもみられるし、自らの土地を戦争のために提供することを断固拒否している反戦地主の生き方にもみられる。
同じく、生活する土地への愛着や人びととの信頼感を創っていくあり方は、外から沖縄に移り住んだ人たちにも、いまの地域を生きる若い世代にもみられる。
抽象的な「国家」に対して、具体的な「土地」に根ざし、その〈土地の記憶〉を共有しながら生きていく生き方の意味を、本特集のテーマとしてともに考えたい。
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特集にあたって(屋嘉比収)
日本人と米国人との〈混血児〉であるノーマ・フィールドさんは、偶然に居合わせたセントラル・パークで、ニューヨーク・シティ-・マラソンの先頭の小集団の中に、一人の日本人を見つけたときの様子を次のように書いている。
「私は自分でもおどろいたことに、胸がじんとして危うく涙がこぼれそうになった。何人か日の丸の旗を手にしている人がいた。私はなにも振るものをもっていない。しかたなく、聞こえないほどの声で、走者に日本語で声援を送った。・・・こんなあまたの感情がどっと混じりあうとき、旗はつねに便利な、そしてあまりにもしばしば致命的な、単純化をしてくれるものとなる」(『天皇の逝く国で』)
ここには、生まれた土地や人びとへの〈愛着〉という「人間のまともな感情」と、それと重なり合うが決して同じではない、旗という〈愛国心〉を助長する装置や制度に対してのクリティカルな洞察があるように思う。
ジョージ・オーウェルは、国家という抽象的な組織原理への熱狂的な一体化である「ナショナリズム」とは別に、具体的な土地の具体的な人びとへの愛着という「パトリオティズム」を指摘している(「ナショナリズムについて」)。
オーウェルによると、「ナショナリズム」は拡張的で権力的な志向性とかたく結びついているが、「パトリオティズム」は特定の場所と特定の生活様式に対する献身的な愛情であり、その場所や生活様式こそが世界で一番だと信じてはいるが、それを他者まで押しつけようとはしない。
鶴見俊輔は、その「パトリオティズム」という概念は「愛国心」というよりも、むしろ「郷土愛」という言葉に近いと指摘している。
そして、オーウェルのいう「パトリオティズム」は、時の政府に対する服従ということではなく、幼いときから同じ土地に育ち、そこで同じ言葉を使って一緒に暮らしてきた者のあいだに生まれる親しみや愛情が人間を底のほうから支えるという思想である、と述べている。
この「パトリオティズム」は、「ナショナリズム」とは重なり合うこともあるが決して同じではない、人間の「まともな感情」に根ざしたものだ。
自分が生まれ育った土地や人びとに対する愛着や信頼感としての、その「まともな感情」。
そしてその「まともな感情」の基層には、〈土地の記憶〉を共有しそれに根ざす生き方がみられる。
知花昌一さんは沖縄国体で日の丸の旗を焼き捨てた。
その行為は、日の丸の旗を強要するあり方への拒否とともに、沖縄戦における読谷[よみたん]の〈土地の記憶〉に根ざすものであった。
その読谷の土地の記憶の一つの象徴が、読谷村波平における「チビチリガマ」での「集団自決」である。
戦後世代である知花さんは、その「チビチリガマ」について以前から持続的な聞き取りを行っている。
「チビチリガマ」に関する聞き取りは、知花さんにとって読谷という〈土地の記憶〉にふれ、それを学び共有していく過程であった。
その根幹には、読谷という土地への愛着や、そこに生きる人びとへの信頼という知花さんの「まともな感情」がある。
それには、オーウェルのいう「パトリオティズム」とでもよぶべき、沖縄読谷における〈土地が支える思想〉があるように思われる。
その土地が支える思想は、自立した個人や市民によるネットワークとは異なる、沖縄の思想としての一つの可能性といえるものではないか。
そのような生まれ育った土地への愛着やそこで生きる人びとへの信頼という道すじは、方言学者でありひめゆり学徒を引率した教育者の仲宗根政善氏にもみられるし、自らの土地を戦争のために提供することを断固拒否している反戦地主の生き方にもみられる。
同じく、生活する土地への愛着や人びととの信頼感を創っていくあり方は、外から沖縄に移り住んだ人たちにも、いまの地域を生きる若い世代にもみられる。
抽象的な「国家」に対して、具体的な「土地」に根ざし、その〈土地の記憶〉を共有しながら生きていく生き方の意味を、本特集のテーマとしてともに考えたい。
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Posted by ブックスマングルーブ店長 at 17:40│Comments(0)